「常夏」は本当に「カワラナデシコ」なのか

 セキチク(撫子)
 (↑原寸なのでこれ以上拡大しません…)

 何年も前に撮った古い写真ですが、撫子(なでしこ)の花です。
 これ撫子なの?と思う方もいるかもしれませんが、
 撫子と聞いてすぐに思いつくのは、
 やはりピンク色の花を咲かせるカワラナデシコ(ヤマトナデシコ)でしょうか。
 写真のものは花の形と草丈の低さからみて、
 撫子の仲間であるセキチク(石竹)の一種と思われます。
 セキチクは別名を唐撫子(からなでしこ)または常夏(とこなつ)といいます。
 唐撫子は中国原産の撫子であることから、
 常夏とは花期が長いことからそう呼ばれるようです。
 写真の花も長い期間にわたって、いつ見ても花が咲いていました
 (次々に新しい花が咲き続けるのです)。
 5月ごろから、なんと冬近くまでです。

 花の直径が3cmほどの小さな花ですが、いつまでもこうして印象に残っています。
 周りに花の無いそこにたった1株だけ、ぽつんと芝生の端に植わっていました。
 赤い花の色は確かに目を引きますが、それよりも絶えず咲き続けていたために、
 近くを通りかかるたびに目にとまったのでしょう。
 まだ咲いてる、まだ咲いてる、えっまだ咲いてる、という具合です。

 そのためだけでは無いのかもしれません。
 冬になると、さすがに花が咲かなくなりました。
 そして次の年の春には忽然と姿を消したのです。

 花があるうちは、管理している方に抜いてしまったらかわいそうと思われていたのでしょう。
 私にとっては、目は引くもののいつ見ても変わらず同じようにそこにあったので、
 ついそこにあるのが当たり前に思えてしまっていました。
 なくなってしまったからこそ「“あった”ということ」が、残っているのでしょう。
 春から秋の終わりまで咲きつづけ、幻のように消えた常夏でした。


 「常夏」といえば源氏物語では、頭の中将の忘れられない女性のことです。
 箒木の有名な「雨夜の品定め」で悔やみ交じりに彼の口から語られます。
 ――放っておいてもあまり恨みに思っていないような様子だったので、
 気にはなるものの、あまり会うことも文を送ることもせずにいたところ、
 いつの間にか行方知らずになってしまった――

 常夏との間に生まれた娘のことは「撫子」と呼んでいました。

 常夏も撫子も「ナデシコ」の別名です。
 源氏物語の舞台が日本なためか、どちらも同じく日本原産のカワラナデシコとされています。
 ですが、秋の七草のひとつでもあるカワラナデシコは、本当に夏から秋にかけてしか咲かないのです。
 「常夏」というほどではありません。
 それなのに常夏も撫子も同じカワラナデシコとされているのが
 私にはどうにも腑に落ちませんでした。
 「…どっちだっていいじゃん!」というのが大方の向きでしょうが、
 私、ちょっと植物関係のことをかじっていた時期があって…ちょっと(笑)

 頭の中将が夕顔を「常夏」と呼んだのは、
 特に気にかけなくても、いつ見ても咲いている花のように、
 普段はほったらかしで気が向いたときだけ訪ねても、
 いつでもにこにこと迎えてくれる人だと思っていたからなのでしょう。
 冒頭で紹介したセキチクは本当にそんな花でした。
 あの花のことを思い出していたとき、
 私の中で頭の中将にとって常夏がどのような存在だったのか、
 くっきりと像を結んだように思えました。


 本当に常夏はカワラナデシコなのでしょうか。


 まずは当時の日本にセキチク(唐撫子)が伝わっていたかですが…

 同時代の「枕草子」には
 「草の花はなでしこ、唐のはさらなり、やまとのもいとめでたし」
 「こちたう赤き薄様を、唐撫子のいみじう咲きたるに結びつけて
 ≪テキトウ訳・以下同…真っ赤な和紙に書いた手紙を、よく咲いた唐撫子の茎に結び付けて≫」
 「朴(ほほ)・塗骨(ぬりぼね)など骨は変われど、
 ただ赤き紙を、おしなべてうちつかひ持たまへるは、
 瞿麦(くばく)のいみじう咲きたるにぞいとよく似たる。
 ≪朴・塗骨など蝙蝠(かわほり=夏向きの扇)の骨の種類は違っても、
 赤い紙が貼られたものを、その場にいる皆が揃って開いて持っていらっしゃるのは、
 瞿麦(=セキチクの漢名))が咲きそろっているのによく似ている≫」
 などと記述がみられます。
 唐撫子はすでに日本に伝えられ、親しまれていた様子が読み取れます。
 そして、唐撫子と日本の撫子(カワラナデシコ=ヤマトナデシコ)の
 区別がされていたこともわかります。

 頭の中将の思い出話の中でも、常夏と撫子は明確に区別されていました。
 その上で
 「大和撫子(=娘)をばさしおきて、<中略>親(=常夏)の心をとる。」
 という表現が出てくるのです。
 1000年前の時点で大和撫子という言い方があったことにまず驚きですが
 (さすがに「日本女性の美称!儚げに見えても芯が強い女性」
 …などといった意味合いはまだ付いていないようです(笑))、
 「大和撫子(撫子)は差し置いて、親(常夏)を慰めよう」ということですね。
 撫子は大和撫子であり、撫子は常夏ではないということになるのですから、
 やはり常夏とは大和のものではない撫子、つまり唐撫子といえないでしょうか。



 補足(?)とおまけ

 えっと…ここまで必要なかったので書きませんでしたが、
 常夏と撫子というのは基本的に頭の中将が彼女らを呼ぶ呼び方で、
 源氏物語読者一般(光源氏視点から)の常夏母子の呼び名はそれぞれ、
 常夏=夕顔
 撫子=玉鬘
 です(念のために補足です(汗))。

 夕顔(常夏)は運命に翻弄されて落命しましたが、
 娘の玉鬘は運命に激しく翻弄されながらもしなやかに生きた「大和撫子」でした。

 大和撫子(日本女性の美称)って、
 考えてみればどこから来たのかよくわからない言葉ですよね…
 もし元ネタが玉鬘から来ているとしたら面白いですね。


 あと、つかみどころがない、弱そうに見えて超・肉食女子などと
 散々(読者に)言われ続けている常夏(夕顔)ですが…
 常夏の死後に侍女から語られた彼女の性格をふまえて、
 また全てを頭の中将と常夏を中心に考えると、源氏がただただお邪魔虫だったなあと(汗)

 常夏にしてみれば、会える機会が少ないことを恨みに思っているように
 頭の中将に取られるのが嫌で、
 また頭の中将には身分の高い正妻
 (しかもこともあろうに、あの弘徽殿の女御の実妹・四の君で気が強い!)がいることから
 遠慮するような気持ちがあったのでしょう。
 しかもその正妻には直々に嫌がらせをされてしまいました!
 恐ろしくて、かといってその様子を頭の中将に「告げ口」するのも気が引けて、
 それでもあまりの辛さに耐えかねて、やっとの思いで文を書いたのです。
 あまり自分から何かするわけではない私が、めずらしく自分から文を書いて送るので
 尋常ならざる窮状に気がついてもらえるのではないか…と。
 ところが期待に反して頭の中将は常夏の窮状を全く酌んでくれず、
 当たり障りのない内容の文が返信としてくるだけでした。
 …やはり自分は物の数にも入らない身だろうか、
 でも一応は返事が来たのだから、待っていればいつかは…という期待は持てるかも。
 とりあえずは正妻から身を守るために、姿を隠すしかない…
 常夏はそう考えてひとまず引っ越しをしました。

 そして色々とほとぼりが冷めたころに、
 自分の隠れ住まいの前でこちらを気にする高貴そうな人がやって来たのです。
 ようやく頭の中将が…!と喜んで手紙を書くも、なんとそいつは違う人(光源氏)で、
 しかもどうしたわけか自分にしつこく絡んできてしまって、事態は大混乱。
 ヤツは強引すぎて引くに引けない…高貴そうな人ではあるから、あまり強くはねつけるのも…
 (こんな常夏の「強くはねつける」なんて、たかが知れている気もしますが…)
 で、そうこうしているうちに、物の怪事件で…

 かわいそうですね…
 でも、頭の中将のような忙しい人はあんなフンワリした歌
 (私のことはともかく、せめて娘は気にかけてもらえませんか)では、
 すぐにそこまで気が付けないでしょうね…
 彼、その程度の内容の文なら色々な人からごまんと送られているはずですものね…

 とにかく双方ともに時期を逃しすぎて、取り返しのつかないことになってしまう例です。
 頭の中将は後悔しまくるしかありません。

 …というか、源氏ってつくづくひどい奴ですね!
 アンタが絡まなきゃ、常夏はあの若さで亡くならずに済んだんですよ!!
 (数え19歳とかではありませんでしたっけ)




2016年8月5日公開
戻る トップページに戻る