源氏物語のネタ元は三国志!?

激動の後漢を生きた英雄たちの活躍を描いた歴史小説の「三国志演義」。
日本でも大変有名なこの物語が成立したのは、紫式部の時代よりもう少し後です。
といっても、演義で描かれた英雄たちの活躍についての民間伝承はその頃すでに生まれ、
広く語り継がれていたはずです。
例を挙げると、演義の元ネタのひとつの「三国志平話」はすでに宋の時代、
つまり紫式部が生きた時代には成立していたようです。
考えてみれば、それは当たり前のことですよね?
三国志の時代から紫式部が生きた時代までは800年ほどあります。
800年といえば、鎌倉時代が始まるころから、
私たちが今生きている21世紀の現代と同じくらいの時間です…
鎌倉時代が始まるころの時代を描いた有名な話が日本にはありますよね。
ご存じ「平家物語」です!
平家物語にも、名場面として広く知られる話
(モノによっては本当かどうかわからないような伝説めいた話…急な崖を馬で駆け降りるとか)が
たくさんありますが、それと一緒です。
平安時代のわりと始めのうちに遣唐使が廃止されているので
(「白紙(894年)に戻そう遣唐使!」)、
日本と中国の交流はなくなっている…とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、
別にそんなことはなく、日本は普通に宋と貿易をしていました。
宋の商人が、日本に訪れていたことも記録に残されています
(文学者だった紫式部の父・藤原為時が越前(現在の福井県辺り)に赴任したのは、
中国語が分かる人材として、この宋の商人と交流するためだったともいわれているようです)。
人や物の行き来が活発にあれば、
中国の一般の人たちが現在進行形で面白がっている最新文化も、
日本に流れ込んでくるものでしょう。
その中に三国志にまつわる民間伝承が含まれていても不思議はありません。
漢籍マニア(!)の紫式部も、最新文化には当然飛びついていたことでしょう(笑)

何でこんな話を書いているかというと…
三国志演義に、ずいぶん源氏物語と同じネタが出てくるなあ…と思ったからです。
それも1つや2つどころではないんです!

例えば、朧月夜です。
朧月夜は、朱雀帝と光源氏の間で揺れる女性として知られていますね。
源氏が京から須磨に自主退去を迫られるという、
政治生命の大きな危機のきっかけとなったのも彼女です。
朱雀帝にことのほか寵愛された朧月夜ですが、彼女の立ち位置は后ではなく「女官」でした。
そのような朧月夜とそっくりな立場にある女性が、三国志に登場するのです。
貂蝉です。
彼女は董卓と呂布の間を行き来して、この2人の協力関係を裂き、片方を死に追いやりました。
貂蝉は架空の人物とされていますが、
歴史書である正史三国志の記述に、モデルとみられる女性の存在が見えるそうです。
この女性は董卓の侍女であり、呂布と密通したと伝えられているそうです。
朧月夜と貂蝉には、2人の男性の間で揺れて片方を大きな危機に陥れる女性であり、
立場は身分の高い人のそばに仕える女性であるという共通点があるのです。
また貂蝉は中国四大美人のひとりとして数えられ、「閉月美人」と呼ばれます。
月を閉ざす、つまり月が雲に隠れることから、月と雲にゆかりのある女性といえます。
そして朧月夜は初めて物語に登場する時に「朧月夜」という言葉が入った歌を口ずさみます。
朧月夜すなわち霞む月ということから、月と雲にゆかりのある人物であることが初めに示されているといえるのです。

続いてこんな話もあります。
須磨でひっそりと暮らすこととなった源氏と親しくすることは、とても危険なことでした。
強い権力を持っていた右大臣一派に逆らう者と見なされるおそれがあったからです。
その危険を顧みずに単身馬で須磨に駆けつけ、源氏を慰めた人物がいました。
源氏の最初の正妻の兄という縁で、義理の兄弟に当たる頭の中将です。
同じように権力者を恐れずに、義兄弟のもとに単身で駆け付けた人物が三国志にも登場します。
関羽です。
「単騎千里行」として有名なこの場面にとてもよく似ています。
(舞台が広大な中国大陸ではなく日本なため、少々スケールで見劣りする感は否めませんが(汗))

さらに、作中の時間はかなり飛びますが宇治十帖でも…
「橋姫」という巻があります。この巻には宇治川の近くに住む2人の姉妹が登場します。
三国志にも、「橋姫」と呼ぶべき女性たちが登場するのです。
江東の二喬(こうとうのにきょう)と呼ばれる、大喬(だいきょう)・小喬(しょうきょう)の姉妹です。
江東の「江」とは、長江のことですね。川です。
そしてこの姉妹の姓は、三国志演義では「喬」ですが、正史三国志には「橋」と記されているそうです。
もはや音が似ているというだけではなく、字も「正しく」同じなのです。


…とまあ、ここまでは小ネタにすぎません(笑)
源氏物語と三国志をそういうつもりで細かく見ていくと、
トンデモナイあることが浮かび上がってきました。

三国志演義の主役(といえますよね?)の劉備は、
先祖をたどっていくと皇帝に連なる人物として登場します。
世代が下り今となっては普通の人同然となってしまった劉備は、
生涯をかけて中国各地を転々としながら最後には皇帝に上り詰めます。
本来は高貴な身分にある人が流浪する境遇となり、
困難に打ち勝って最後には大きな成功を得る…という筋書きになる物語を
貴種流離譚といいますが、
三国志演義の劉備はまさにこの典型といえると思います。

源氏物語に、よく似た境遇をたどる人物が出てきます。
その人物は天皇の子として生まれながら臣下(普通の人)の身分に降ろされ、
苦悩が絶えない人生を送り、時には都から離れた地に流れ、
最後には準太政天皇(位を譲った天皇に次ぐ身分)にまで上り詰めます。
誰のことか、もちろんお分かりですね?
源氏物語の主役、光源氏その人です。
光源氏は須磨行きのエピソードが貴種流離譚であると語られますが、
京にいるときでも、心は常にさまよい続けているような人生なので、
その人生全てが貴種流離譚であるといっても差し支えないように思えます。

何と主役までもが!!!
まあ…共通点がいくつかあるとはいえ、これだけでは偶然っぽいでしょうか?
でも、これだけではありません…
名前についても見ていきましょう。

名前…といっても、光源氏という呼び名はもちろん本名ではありません。
「光り輝くような源姓の方」という意味です。
とはいえ、作中に本名は一切書かれていません。
当時の身分の高い人の本名を呼ぶのをはばかる習わしを、
そのまま物語世界にも持ち込んだためです。
中国で人の名前を本名の諱(いみな)ではなく字(あざな)で呼んでいたことと同じ
…といいますか、中国からそういう習慣を導入したのでしょう。
このようにして光源氏の本名は姓の源しかわからないため、
源某としか書きようがありません(笑)
この辺の話はいったんこのまま置いておくことにします…

さて、劉備の字(あざな)は玄徳です。
そして、その死後に功績をたたえるために贈られた諡(おくりな)は昭烈帝です。

まずは字を見ていきたいと思います。
玄徳を日本語の発音で読むと「げんとく」ですね。
源氏は通常「げんじ」と読みますね。
「玄」と「源」の「げん」の音が一緒です。
そして、「徳」の方ですが…
源氏は美貌や才能など優れた面を多く持っていることを、
前世で功徳を多く積んだためだろうと、周りの人たちから噂される人物です。
源氏の人柄を語ろうとするとき「徳」は切っても切れないものなのです。

次に劉備の諡を見ていくことにします。
皇帝の位にあったので「帝」の字が付くのは当然のことです。
それでは「昭烈」とは何でしょうか。
1文字ずつ意味を見ていくことにします。
とりあえず、「漢字源」を用意します!
(なぜ「漢字源」なのか…それは手元の電子辞書に収録されているからです(笑))

「漢字源」によると「昭」の字には、
あきらか、あきらかにする、隅々まで照らし出すという意味があることが分かります。
また、「祖先をまつる廟の序列の名。始祖廟を中央に置き、
初代をその左に置いて昭といい、その子を右に置いて穆(ぼく)という」
ともあります。
劉備の場合、廟の序列として始祖に高祖劉邦を置いたうえで、
蜀漢の初代ということで1文字目に「昭」の字を付けた可能性も考えられます。
でもこのままでは、どちらなのかはまだ決めづらいです。

続いて2文字目の「烈」には、はげしい、めざましいという意味があります。
「烈」の意味を見ると「昭」の意味は始めに挙げた、
あきらか、あきらかにする、隅々まで照らし出すであると見た方が意味が通ってきます。
つまり「はげしい、めざましい」ほど「あきらか、隅々まで照らし出す」ということです。
これは「光り輝く」といっているのと同じだと受け取ることができます。
後世の人にとって諡は、
その人物の功績や人となりを知るよすがとなりえます。
諡を考えるとき、そうしたことも考えの中にあるはずです。
よって、劉備という人がどういう人であったかを端的に表すと、
光り輝くような皇帝であったということなのです。
それは普通の人から身を立てて皇帝にまでなった輝かしい人生をさしているのかもしれませんし、
後光がさすような、身から光を放つような人
(たまにそういう方っていらっしゃいますね!ハゲという意味ではありません)
であったからなのかもしれません。
とにかく、「光り輝く」のですよ!

さらに「劉」という姓について見ていきたいと思います。
注目したいのは発音です。
現代の発音とはなってしまいますが、中国語では「liu」と発音します。
この「liu」という発音をされる他の漢字に「六」があります
(声調…発音のアクセントのようなものは違います)。
「六」という漢字は、光源氏を表す上では非常に意味のある字となります。
光源氏の別の呼び名に「六条院」というものがあるからです。
六条院の名は準太政天皇なので「院」、また光源氏の邸宅が六条にあったことに由来します。
その六条の邸宅の土地は、もとは恋人であった六条の御息所の邸だったところを、
彼女の死に当たって娘を後見する条件で受け継いだものでした。
それはともかく、なぜ六条の御息所は「六条」が住まいだったのか?
基本的に考える意味を見いだせないために、
考えられる機会そのものがなかったことではないかと思います。
光源氏に劉備のイメージを重ねる目的があったとすれば、
「六」条でなければならなかった理由となりえます。

しかも日本語で現在は一般的に「ろく」と読むこの字ですが、
「りく」という読みもあります。
この読みは「漢音」でのものです。
漢音とは「広辞苑」によると(コレも手元の電子辞書に…以下略)、
「唐代、長安(今の西安)地方で用いた標準的な発音を写したもの。
遣唐使・留学生・音博士(おんはかせ)などによって奈良時代・平安初期に伝来した。<中略>
官府(かんぷ)・学者は漢音を<中略>用いることが多かった。」とのことです。
学者の娘であった紫式部にとってなじみがあったのはこの漢音だったことでしょう。
ちなみに漢音で「劉」は「りゅう」または「りう」です。
特に「りう」と「りく」の発音の近さは、同じ「ラ行+ウ段」ということからとても近いものといえます。
もちろん当時の中国でのこの2つの文字の発音が今とは全く違っていた可能性もあります。
そうではありますが、現代の中国語でのほとんど差がない発音、
紫式部が親しんでいたであろう漢音での発音の近さは注目する価値がありそうです。

昭烈=光、劉=六、玄=源、そして徳と、
劉備と光源氏の2人の名前を表す漢字に繋がりが見えてきました
(ここまでちゃんと書いていませんでしたが、今回の場合「帝」=「院」でもあります)。
偶然とは思えないほどの一致ですね!
もうコレは光源氏のモデルのひとりが劉備だといっていいでしょう!!

ここでさきほど置いておいた話に戻りたいのですが…
姓の「源」はともかく、名は結局のところ分からない「光源氏」こと源某。
光源氏の本名当てに、今まで多くの人が取り組んできたことと思います。
モデルのひとりとされる人物に源融という人がいるから…など、いろいろな想像がされてきたようです。
ここまで劉備の名前を表す漢字の、劉、玄、徳、それと昭、烈、帝、
また光源氏の名前を表す漢字の、光、源、六、院について書いてきましたが
(「氏」と「条」はそれぞれの言葉の使い道から、今回漢字の意味を考える対象には含まないこととします)、
1文字忘れ物があることにお気づきでしょうか。
劉備の諱の「備」ですね。
そうです、諱=名が触れられずに残っているんです!
光源氏の本名でも分からないのは、名です。
ということは光源氏の本名は、みなもとのそな…まあ、やめておきましょう(笑)
本名は「忌み名」。呼ぶのを避ける名前でしたからね!


ほか…話がすでに長すぎるので詳しく書かずに端折りますが、
ものすごい量の一致がほかにもみられるのですよ!
(例えば劉備と光源氏の長男の名前が劉禅(りゅうぜん)と冷泉(れいぜい)帝で音が近いとか、
2人ともだいぶ年を取ってから親子ほど年の離れた女性と結婚するとか…劉備:孫夫人、光源氏:女三の宮)

やっぱり、源氏物語は完全に三国志をネタ元にしているのです♪


…とここまで書いてきましたが、
「まあちょっと待て、偶然だろう!」とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。
それはもちろんそうかもしれません。
でも源氏物語の内容に三国志と似た部分が数多く見られるのが
偶然なのか、そうでないのか…これはどちらであっても面白いですよね♪
すべてが偶然の一致ならば、
老若男女にウケる面白い話には何らかの定形がある…ということになるかもしれません。

偶然ではなくてワザとならば…
源氏物語に男性の注目を集めるために、
男性受けするであろう三国志のノリをしのばせたことが考えられます。
しかし作者の紫式部は女性なので、
あからさまに書くと作者本人がドンビキされかねず、あくまでもこっそりです。


そして、終わりに最も大切なお話しをしておきます…
このページの「公開日」はとても重大な情報なので、見落としなくご確認ください(笑)





2016年4月1日公開
更新履歴に戻る
トップページに戻る