「竹取の翁」が物語る    (長文です)


「竹藪の中で見つけたうちのかわいいかわいい姫…うっ…うっ…ああぁ…(泣)
ずーーっと、じいじと一緒にいてねって言ったのに…うっ…うっ…うぅっ…(泣)
うん!じいじ大好きってあの子も言ってたのに…約束したのに…ああっ…ううっ(泣)
こっちをちらっとも見ずに飛んで行ってしまった…ううぅ…っ…うぅ…(泣)
……ズビーズバー(鼻をかむ)……ううっ(泣)

なんて薄情な子なんだ…ぁあ…(泣)
恩の分からぬ性悪娘だから行ってしまったのか…あ、あぁ…(泣)
と、ひどく泣き暮らしながら、うっぷん晴らしに書き物を始めるひとりの男の人がいました。
自分を「じいじ」といってはいますが、本当は「じいじ」というほどの年ではまだなく、
そうはいってもさすがに「にいに」はないだろう…と自分でも思う微妙な年頃のおじさんです。
そして「その子」は竹藪の中で見つけたので、
ちょっと考えて、最初の一文として「竹取の翁といふものありけり」と書きました。

拾ってきた「その子」は奥さんに預けて、籠に入れて守りながら面倒を見させていました。
家から勝手に飛び出して、動物に食べられてしまったら大変だからです。
そうしたことをひとつずつ思い返しながら書き進めていきます。
奥さんもまだ、おばあさんという年ではありませんでしたが、
「翁(じいじ)」の奥さんだったら「媼(ばあば)」だろうよと勝手に決めてしまいました。
「その子」は、じいじとばあばにとてもよく懐いていました。
ですが、じいじは「その子」が自分の方に、より懐いていると思っていました。

「その子」は3か月ほどでスクスク育ち、きれいで立派な大人になりました。
これを機会に「その子」の名前を専門家に尋ねると、
専門家は見るなり「光…」と言いました。
そのためにじいじは「その子」を「かぐや姫」と呼んでいたのです。
時に「かぐや姫」は天女とまごうばかりの美しい声で歌を歌うこともありました。
光の名前を呼ぶ歌でした…とこの辺りを書くと、
すぐにネタバレして興ざめだとじいじは思ったので、書くのはやめにしました。

「かぐや姫」は本当にとってもかわいくて、
じいじとばあばの2人はその姿を見るだけで幸せな気持ちになりました。
少しくらいの体の具合の悪さなどは、あっという間に吹き飛んでしまいました。
「かぐや姫」の美しさかわいらしさは、
じいじが周り中にベラベラしゃべってしまったために大評判になったのでした。
見せてほしいといわれてひと目見せると、
ぜひ「かぐや姫」を自分に、という人が何人も現れてしまいました。
その人たちは「かぐや姫」が気に入りそうなものをいろいろあげたりしましたが、
「かぐや姫」はいやがって、ほかの誰にも懐こうとしませんでした。
じいじは本当は一安心でした。

ふっふっふ…人の気も知らないで、あのわがまま娘よ、とこの頃のことを思い出しているうちに、
じいじには少し悪ふざけのような気持ちがむくむくと沸き起こり、
気分が乗ってきました。
立派な貴公子が何人もやってきて、比べるものがないほどの素晴らしい宝物を持ってきたのに、
それには見向きもしないで、宝物を手に入れる苦労を陰で笑って…
そうそう、その宝物は姫がこれを持ってきてとわざわざ言ったものだったことにしよう。
…姫も姫なら貴公子も貴公子だろう。
よくできたニセの宝を腕利きの職人に作らせて、支払いは踏み倒して…
作らせたニセの宝を得意げに姫に見せているときに、
職人が請求に押しかけてきて、悪事が全部バレてしまって…

ニヤつきながら楽しく書き進めていたじいじでしたが、ふと筆が止まりました。
あの子の目、まなざしは本当に澄んでいて、
じいじのようなヨコシマな心なんか欠片も持っていないようだったのです。
ほわーんとしたやさしい目をしていました。
うちの「かぐや姫」はそんな子ではありませんでした!

それを思い出したじいじは、かぐや姫に、
宝探し中の事故が原因で亡くなる貴公子を「かわいそう」と思わせたのです。
後から思うところがあって、そこに「少し」と書き加えました。
「かぐや姫」は人の気持ちをわからないというよりも「わかれない」のでした。
それは「かぐや姫」が、じいじとばあばとは違う世界に生きているからです。
たとえ帝の思し召しでも、お受けすることはできません。
帝でさえ畏れ多くも、こちらの世界のお方だからです。

…帝のお耳にかぐや姫の評判が届くようなことがあっても面白そうだと、じいじは思いました。
あの「かぐや姫」のかわいらしさであれば、どんな無礼を働いても帝はお許しくださるはずです。
そうはいっても、お相手が帝であれば姫も多少は遠慮して、
貴公子たちが相手の時よりはきちんとするかもしれません。
でも「かぐや姫」はこちらの世界の人ではないので、そのことは姫から帝にきちんと申し上げさせて…
そうしてかぐや姫の縁談話を延々と書いてきたじいじでしたが、
ついに帝にまで出ていただいたので、書くネタがとうとう尽きてしまいました。
ああ、いよいよあの話を書く時が来てしまったよと、じいじはまたしょんぼりとしてきました。
自然と筆も止まってしまいました。

夏も終わりに近づくころ、「かぐや姫」は外の様子を気にし始めたのでした。
どうしたのと尋ねてみても、「かぐや姫」は何も教えてくれませんでした。
人の気持ちをわかれない「かぐや姫」は、
…いえ本当は、わかっていたとしても、その気持ちに、人に従うことはできなかったのです。
別れの時が近いことを悟っていた「かぐや姫」は、
あの時、寂しかったのかもしれない、悲しかったのかもしれない…
じいじはまた、びしょびしょと泣けてきました。
なんてかわいそうな「かぐや姫」なのでしょうか…
よし!姫の迎えの連中を退けるために、警備を万全に固めてその日を迎えることにしよう!
いったんこのままで、じいじは筆を休めることにしました。
これから書き進める決戦の日に向けて英気を養うのです。
ばあばに、そろそろお仕事を…といわれたからでもあります。

じいじは仕事にいそしむ普通の日々を送りました。
竹細工ではありません。
いろいろな書類の決裁のために筆を執るような、そんな仕事をじいじはしていました。
こういう仕事でもなければ、こんなつまらない書き物に使う墨や紙を調達できないでしょう、
どちらも結構高いんだから…と、じいじは心の中で笑っています。

そうした日々を送るうちに、
じいじは「かぐや姫」の思い出を離れたところから見られるようになりました。
こんなにも必死に、小さな「かぐや姫」のことで心乱され振り回されて、
傍から見たらまあ愚かしいことだろう。
他人から見れば、取るに足らないことかもしれない。
そうはいっても、身に降りかかる出来事に右往左往するすべての人々を、
例えば「かぐや姫」たちのように見下ろしながら眺め比べれば、
どの人も同じように見えることだろう。
人は心に振り回されて、意味も無くもがき続けているだけなのかもしれない。
人の「心」とは取るに足らないものなのだろうか。
心を持たない方が人は幸せに生きられるのだろうか。
心がなければ、たしかに悲しみや苦しみはないだろう。
ただ、喜びも幸せもそれを感じる心がなければ、なくなってしまうだろう。
こうして世の中を俯瞰するように思い起こすと見えてきた。
なんと人は小さく弱い存在なのだろう。
蝸牛角上(かたつむりの角の上のような小さな世界)に這いつくばってバタバタもがくように、
笑って泣いて怒って、あるときは手を取り合い、また、争いもして生きている。
時に愚かしく見えるもののすべてをも含めて、
人の心のありようと、その心が巻き起こす人の振る舞いのなんと愛しいことだろうか…

早速じいじは仕事をそこそこに、話の続きを練り始めました。
かぐや姫は月の都の人だったということにしました。
月はいつも空高くからじいじたちを見下ろしていますし、
「月の都の人」とは、なんと普通の人らしくなく、しかも情感あふれることでしょう!
ネタバレを避けて書くのをやめた「かぐや姫」の歌声とも辻褄が合います。
書くのをやめた話と辻褄を合わせても甲斐のないことですが、
自分だけわかっていればいいと、じいじはニヤニヤ笑っています。
あの別れも秋でしたから、広く月見の頃といえるでしょう。
それに…それほどの異世界の人であったと思えば、
こうして一緒にいられなくなってしまったことにも諦めがつくというものです。

かぐや姫を迎えに来た月の都の人たちを、
じいじたち地上の人たちとは全く違ったものとして描くことにしました。
「かぐや姫」たちは、自分たちと違った価値観を持って生きているのです。
人の心は持たないということです。
ならば、月の都の人たちには悩みもないでしょう。
そして月の都ではこの世の中のような、ばかばかしいことは何も起きないのです。
見た目は、仲間ですからかぐや姫そっくりに美しくて
…年を取って、じいじとかばあばにはならないことにしましょう。

なんだかヤケに完璧そうな人たちになりました…
じいじたち普通の人から見たら、いけ好かない連中になりそうです。
きっと鼻持ちならない連中は、じいじたちを見下ろすばかりか「見下す」でしょう。
連中の言い分では、じいじたちが醜く愚かで悩みが尽きないのは心があるからなのです。
そんなつまらない心なんかを大切にして、幼稚だともいうでしょう。
嫌な連中です。
そもそもじいじは、かわいい「かぐや姫」を自分たちのもとから連れ去った連中に
いい思いを抱いていませんでした。当たり前です。

ならばなぜ、そんな地上に姫がいるようなことになったのでしょうか。
それは…悪いことをした罰か何かで天から落とされてしまったからなのです!
何といってもあれほどかわいらしかった「かぐや姫」なのです。
全くおおげさなことではありません。
じいじは割と本気でそう思っています。
そうでもなければ、かわいらしい「かぐや姫」が、あんな薄暗い山に落ちているはずがありません!
まあ、本当の理由はちょっとした不運なのでしょうが…

さておき、嫌な連中はそんなじいじたちの生きる地上を汚いともいうでしょう。
だから「完璧な」月の都の人たちが、
心を持つ幼稚なじいじたちと汚い地上で暮らすことは罰だったのです…!
じいじはつい、月の都の人たちがいかに嫌な連中なのかを書くのに力を込めてしまいました。
書くべきはそういう話ではありませんでした。

じいじは、物入れの中から「かぐや姫」が残していった尾ば…ではなくて、
羽衣…でもなくて、「衣」を取り出して来て眺めました。
これを脱ぎ捨てるように、はらりと置いて行ってしまったのです。
「かぐや姫」の仲間たちは「かぐや姫」をどうやって見つけたのか、ある日突然やって来て、
じいじたち人がいるのさえ全く気にせずに「かぐや姫」を連れ出したのでした。
あれほど、じいじたちによく懐いてかわいかった「かぐや姫」は
迎えが来るなり、突然じいじたちを忘れてしまったように飛び去ってしまいました。
仲間たちが「かぐや姫」から人の心を一瞬にして消してしまったようでした。
それは羽衣を着せ掛けるほどのたやすさかと思われました。

月の都の人たちにとって、人の心のようなつまらないものは、
天の羽衣を着て消し去らなければならないまやかしなのでした。
異世界の人である月の都の人たちと地上の人は、
本当の意味で心を通わせることは初めからできなかったのです。
そのため、月の都の人たちが何を考えているのか理解できなくて当たり前で、
無理してまで理解しようとする必要もないのです。
たとえどれほどの募る思いを抱いても、決して越えられない壁に隔てられているようなものです。
それは「かぐや姫」にとっても同じことでした。
じいじたちと「かぐや姫」たちは全く違う価値観で生きているのです。
それはどちらが優れている、劣っているということではありません。
月の都の人たちにとっていかに取るに足らなくとも、
地上の人にとって「心」はかけがえのないものなのです。
そして地上の人には何を考えているのか分からない月の都の人たち…
「かぐや姫」と仲間たちにも彼らなりの生き方があるのです。

こうして話を書き進めるごとに気持ちがさっぱりしたじいじでしたが、
書きたいことを書こうとしているうちに、なんだか教訓物の昔話のようになってきました。
それならばそういう雰囲気をもっと入れてみましょう。
じいじは、適当にこじつけた言葉の由来めいた話をいくつか差し込むことにしました。
さらに、じいじはこの話の始めの部分に「今は昔」と書き入れました。

やはり「かぐや姫」を失った悲しみも書きたい限り書いておくことにしました。
恥ずかしがることはありません。それが人だからです。
おおげさなほどの表現を選んで書きます。
構いません。本当に悲しかったのです。
あの後じいじはもちろん、ばあばも泣いていましたし、
「かぐや姫」を知っている人たちに「かぐや姫」がいなくなってしまったことを話すと、
誰もがとても悲しみ残念がりました。
最後には帝に再びおいでいただいて、話をしめていただくことにしました。

―終―


突然ですが、私はサントリーのCMの宇宙人ジョーンズシリーズのファンです
(前に…今のところの総集編DVDプレゼントを気合(!)で当てました(笑))。
あのシリーズのキャッチコピーは「このろくでもない、すばらしき世界」ですね。
キャッチコピーは同時にシリーズ全体を貫くテーマでもあります。
このテーマと、竹取物語のテーマが同じであるように私には感じられるのです。

2つの物語に共通するのは異世界の人の目を通して客観的に見た、
地球の人間が生きる世界です。
もっとも、竹取物語に登場する月の都の人たちの場合は、
客観的に見た結果として地球と人間に否定的な評価を下しています(汗)
ここで大切なのは下された評価ではなくて、
「客観的に見る」という視点そのものなのです。

日頃あくせくと生きていると、不安と焦りに駆られてどうしても今日と明日だとか、
毎日会う人隣の人、気が進まない大量の用事…など(笑)
身近な面白くないことが、どんどん目に付きやすくなったり気にかかりやすくなったりしませんか。
そういう時は近い視点で狭く主観的に、物事や世の中をひねくれて見がちです…
こんな時こそ遠くから広く客観的に、
自分を含めた物事や世の中を見られる瞬間を持つことが大切なのかもしれません。
視点の高さを上げて遠くまで見渡すと、身近なことは小さすぎてよく見えなくなります(笑)
それによって、小さなことにとらわれすぎていたと思えたり、
この世の中は小さくて弱い無数の人間たちが人知れず支え合うことで、
危うくも何とか形を保っているんだなと思えたりして、
気持ちをひとたび落ち着けたり晴らすことができるのです。
この視点の高さや客観性が、例えば月の都の人や宇宙人の視点のようなものなのです。

「竹取物語」は、話が進むごとに作者の視点が少しずつ上がっているように思えます。
書き進めることで気持ちが落ち着き、晴れていったのでしょう。
物語を書くことには、そういう効果もあるのかもしれません。
そうして竹取物語の作者は、私たちの生きるこの世の中を
「このろくでもない、すばらしき世界」というように思えるようになったのだと思います。


さて、「かぐや姫」とは何者だったのか。
人間だったら、まあ…イヤな奴ですよね。
しかも帝さえこちらの世界の方と言い切ることが、当時なのに許されてしまう不思議な存在です。
本当ならそんなことを書いた作者の首がガチで飛びかねません(帝を敬っていない=反逆罪?)。
それに、何でそんなイヤな奴のことを書くためにこれほどの労力をかけるのかという話になります。
竹取物語は読み手を一応意識してはいるものの、誰かに命じられて書いているものとは読めません。
つまり作者が自分のために書いたものなのです。
作者の中で「かぐや姫」はイヤな奴ではないのだろうということになります。

本文中に書かれている内容から、「かぐや姫」について拾い上げていくと…
竹藪の中のような薄暗い場所にいた小さくてかわいらしいもの。
光っていた場所(=「かぐや姫」がいた場所)は竹の根元。
姿の美しい姫であること。天女のイメージがあるもの。
短期間で成長し、秋には仲間とともに飛び去ってしまったもの。
その時形見として衣を残した。
三寸、三月…と何度も登場する「三」という数字。
「光」「輝く」といったキーワード。
地上の人間ではない。

全ての条件が当てはまる存在があります。
日本には夏鳥として渡ってくるサンコウチョウという鳥です。
さえずりの美しい鳥として知られ、名前もさえずりに由来しています。
そのさえずりは「月日星、ホイホイホイ」と聞き倣しされるものです。
月と日と星すなわち三つの光から、「三光鳥」と名が付きました。
姿もとても特徴的です。
小さな鳥でありながら、体の何倍もの長さの尾羽を持ちます。
長い尾羽をひく姿は、衣の裾をひきながら歩く姫を、
尾羽ををひらひらさせながら飛ぶ姿は天女を思わせるでしょう。
また、サンコウチョウは薄暗い森の中で繁殖します。
つまり「かぐや姫」は巣立ち直後でうまく飛べず、竹藪の中の地面にとどまっていた若鳥なのです。
長い尾羽は、渡りの前に一度抜け落ちるそうです。
そして次の繁殖期までにはまた生えて来るようです。

鳥たちが仲間を迎えに来ることがあるか…ということですが、
そういう話を(なんと)2例も見つけたのであらすじを書かせていただきます。
どちらも自然観察を中心としたエッセイからです。
1つ目は小林朋道さんの「先生、子リスたちがイタチを攻撃しています!」中の
「ヒヨドリは飛んでいった」の章です。
ケガのために保護したヒヨドリの体力がかなり回復した頃(まだあまり飛べない)に、外を散歩させていた。
すると、別のヒヨドリが近くにやって来てさえずりはじめた。
保護していたヒヨドリはそれに応えるように鳴いて、
ぎこちなくも別のヒヨドリの止まる木に飛んでいき、枝にとまった。
しばらくしてそのまま2羽で連れ立って飛んで行ってしまった。
実はこのヒヨドリを保護する時、ずっと近くで様子を見守っていたヒヨドリが1羽いたそうです。
その同じヒヨドリとは考えにくいとしながらも、
小林さんによると、保護していたヒヨドリが鳴いて、木に飛んでいくとき
「なんとなく尋常ではない緊張感を感じたのも確か」だったそうです。
2つ目はとりのなん子さんの「とりぱん」の5巻、第118羽〜127羽
(この漫画は遊び心で話数の単位が「羽」になっています)です。
保護したヒヨドリの雛が成長し、野生に返す訓練のために窓の近くの外に出すようにしていた。
しばらくすると、ヒヨドリたちの群れがその場所・その時期に珍しくやって来た。
それから数日のうちに保護していたヒヨドリは飛び立って行った。
どちらの例も人間の心情的には、仲間が迎えに来たといって不自然がない状況だと思います。
(どちらの例もサンコウチョウではなくヒヨドリなのがゴメンナサイな状況ですが(汗)
ヒヨちゃんも尾羽は割と長いのですが…あまり光というイメージがないのです)

さらに「とりぱん」には、ヒヨドリが世話をする人たちによく慣れていたこともあって、
いつまでもいるような気がしてしまっていたこと、
ヒヨドリが去ったあと2週間以上が経っても、
世話をしていた人たちは喪失感で大変で…という話も出てきます。
その話の流れで、世話をしていた人たちの中に、
「『野生のものの眼を見るもんでねえ』って/『魂を抜かれる』から…」と、
昔、大人に言われていた…と振り返る人も現れます。
とりのさんはこのシリーズの最後を、
「鳥のヒナなんか拾うもんじゃない/野生のものの眼をのぞき込んではならない/
その奥には/決して届くことのない何かがあると/思い知らされるのだ」とまとめています。
竹取物語本文中の「かぐや姫」が去った後の翁や媼たちの様子と重なります。

「かぐや姫」が鳥であったら、
こんな振る舞いをする人間はイヤな奴という感覚を当てはめようともしないはずです。
また、帝さえこちらの世界の方と言い切っても罪になるはずがありません。
価値観を全く理解できないという意味で、こちらの世界とあちらの世界なのです。
作者は竹藪の中で拾った小鳥の思い出を書き綴っていたのです。

ところで、野鳥に詳しい方がお読みでしたら、
すでに笑いを堪えきれなくなっている頃かと思います。
といいますのも…長い尾羽を持つサンコウチョウはオスだからです。
オスです。大切なので2度書きます(笑)
姫とはいったものの、本当は男の子なんです…
竹取物語の本文中には特に書かれていない姫の歌をあえて書いたのは、
このことが理由のオフザケでした…


一息つきましたので、「『竹取の翁』が物語る」本文中で書ききれなかったことと、
伝わりきっていないと思われることについての補足を(笑)

(その1)これまで書いた理由から、
私は「竹取物語」は作者の実体験を物語の形に映したものと考えています。
また作者は自分の立ち位置を、
かぐや姫の次に中心人物となっている翁に当てているとみなしました。

(その2)翁は年齢が「70歳」「50歳ほど」と作中でバラついて
矛盾が起きていることが知られています。
私はこのバラ付きは誤りではないと思っています。
竹取物語の内容を読んでいくとかなり時間をかけて構想を練りこみ、
推敲を重ねていることが想像できます。
なので作中の翁は実際には50歳くらいなのに、
姫に「ワシはもう爺さんなんじゃ」と大げさにいうために、
ワザと「もう70なんじゃ」といっているのではないでしょうか。
たいした年齢でもない人が「年寄りをいたわらんか!」といっているようなアレです(笑)
というワケで現実の翁=竹取物語の作者は、
そんなことを日頃言ったり思ったりしている、
本当は50歳にもなっていない人ということにしました。
竹取物語がすでに成立していたとわかっている平安時代ごろは、
40歳を過ぎると高齢と見られていたようですから、
ひょっとしたら40歳にもなっていないかも…(笑)

(その3)作者の職業は高級品だった墨や紙を簡単に手に入れられる職業ということで、
庶民ではない、つまり竹細工職人ではなく(笑)、
役人か政治家ということにしてあります。
作者の人物像の推測でこのような話があるようなので、いいですよね?

(その4)「『竹取の翁』が物語る」本文中で「かぐや姫」と、
鍵括弧のない かぐや姫 または 姫 に書き分けていたのですが、お気づきになったでしょうか?
「」の方が鳥で、くくっていない方が竹取物語の登場人物としてのかぐや姫です。



源氏物語の作中で、わざわざ「竹取物語」を「物語の出で来はじめの祖」と書いた紫式部には、
とてつもない竹取物語へのリスペクトを感じます。
私は自分の書いたものを結び合わせずに、それぞれを独立したものとしておきたいのですが、
「源氏物語」を書く上で実体験を基にしているかもしれないと、
以前に書いたことを思い出さずにはいられません。
自分の体験を面白おかしく人に語れる形に整理したもの=物語ということなのでしょうか。
さらに…紫式部の「月」というイメージへの思い入れの強さも、どうしても感じてしまいます。
詠みたくなるほど思い入れがある人との再会の歌に「月」を詠みこんでいることに、
別れがたくとも避けられない別れを描いた竹取物語の影響を見たくなってしまうのです。
この頃そういう話を散々書いたのが、まだ私の中で尾を引いているのかもしれません…




2015年12月23日公開
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