趙雲の槍さばきと楊貴妃の涙
趙雲と楊貴妃、どちらも中国の歴史上の人物です。
後漢から三国時代になるころに活躍した武将と、
唐代に皇帝の寵姫だった人物という、
時代も立場も違うこの2人。
一見したところ(よく見たとしても)何の関係も無さそうですが、
この2人は、ある1つのものによってつながっています。
それは「梨の花」です。
梨の花…日本人の私たちには、馴染みの無い花だと思います。
遅れて咲いた桜の花に見間違われそうなほど、遠目には似ています。
細かな違いはたくさんありますが、特に際立つのは
赤味の無いきりりとした純白と、
一心に天を仰いでいるかのような花の付き方です。
きれいな花です。
梨の花を好む人がもっと多くても不思議ではありません。
今回は、この梨の花を手掛かりに日中の古典の世界を探ってみたいと思います!
(なにやら大きく出てしまいましたが、所詮は当サイト。どうなることやら)
さて、趙雲の槍さばきは「三国志演義」に
那鎗渾身上下,若舞梨花;遍體紛紛,如飄瑞雪
(上下におどる槍は、さながら梨の花の宙に舞うがごとく、
きらきらと左右に輝いて、白雪の風にひるがえるかと見えた (立間祥介 訳))
とあります。
ほら梨の花、出てきましたでしょう?
槍の先が光を反射してきらきらと白く光るさまが、梨の花が舞うようだというのです。
舞うというのですから、梨の花びらと考えてみてもいいかも知れません。
同時に雪にもたとえられていますね。
梨の花は白いですから、白いもの同士で雪とも自然に結びつきます。
桜ではないのに、これを読むと私はつい花吹雪も連想してしまいます(笑)
一方の楊貴妃については、白居易の「長恨歌」で
玉容寂寞涙欄干
梨花一枝春帯雨
と、彼女が涙を流す様子が、春の雨に打たれる一枝の梨の花にたとえられています。
一枝の梨の花は楊貴妃を表すものですが、
同時に梨の花、もう少し正確には梨の花びらが涙を表していると読めます。
分かりにくいでしょうか…?
では、木に咲いた花に、雨が降りかかってくる様子を思い浮かべてみてください。
日本には花散らしの雨という言葉があります。
今回は桜ではなく梨の花ですが、
雨が降ると同じように花は散ってしまうことでしょう…
このことをふまえてもう一度読んでみると、場景が見えてきませんか?
寂しそうに涙を流す楊貴妃は、雨に打たれて花びらをはらはらと散らす梨の一枝のよう。
つまり、涙が梨の花びらのようにはらはらとこぼれおちているのです。
2つの例を見ると中国で梨の花は、
散るものとして見られ、涙や雪にたとえられるものだと分かります。
それも、格好いいもの、美しいものに対して使われています。(ね?)
日本での桜の扱いに似たところがあります。
…桜はあまり涙にはたとえないですかね。
でも面白いです。
では、日本の梨の花が出てくる古典を
続けてご紹介し…って、あんまりないんですよねえ。
桜ならいざ知らず。
「梨=無し」を連想するからと、古来あまり人気が無いんです。
それに、花よりも実の印象が強すぎる…!?
と言っても、ちゃんと見つけてあるのでご安心を!
それも、奇しくも平安時代の「あの」2人が書き遺したものです。
紫式部と清少納言ですよ…(笑)
しかもテーマは2人とも、梨の花の美しさについて(!)
当サイトは源氏サイトなので、まずは紫式部の方から紹介します。
紫式部集にある詞書(状況説明文)と歌です。
花の散るころ、梨の花といふも桜も、夕暮れの風の騒ぎに、いづれと見えぬ色なるを
花といはば いづれかにほひ なしと見む 散りかふ色の ことならなくに
(口語訳…桜も梨も花という以上は、どれが美しくない梨の花と見ようか。
風に散り乱れる花の色は違っていないんだもの)
花=桜は、この頃すでに定着しているようです。
また、「なし」は「無し」と「梨」をかけています(ほら、ここでも)。
こういう歌を詠むのですから、紫式部は梨の花が好きなんでしょうね。
続いて清少納言の言葉を、枕草子から抜き出します。
ページ作りの都合で文の途中でもテキトウに行変えしてますが、お気にせずに!
梨の花。
世にすさまじきものにして、近うもてなさず、はかなき文付けなどだにせず。
愛敬おくれたる人の顔などを見ては、たとひにいふも、
げに、葉の色よりはじめて、あはひなく見ゆるを、
唐土には、限りなきものにて、詩(ふみ)にも作る。
「なほ、さりとも、様あらむ」と、せめて見れば、
花びらのはしに、をかしき匂ひこそ、心もとなうつきためれ。
「楊貴妃の、帝の御使にあひて、泣きける顔に似せて、
『梨花一枝、春、雨を帯びたり』などいひたるは、おぼろけならじ」と思ふに、
「なほ、いみじうめでたきことは、たぐひあらじ」とおぼえたり。
まとめますと…
ぱっとしない花だけど、あの白居易が「長恨歌」の中で
楊貴妃をたとえるのに持ち出しているんだから、素晴らしいんでしょうね、
どれどれ、ほうほう…やっぱり白居易の言ったとおりですね。
というところです。
これではまるで、長恨歌が頭にあるから素晴らしく見えた(見ようとした)かのようです。
なんだかすっきりしません。
(ところで、「花びらのはしに、をかしき匂ひこそ、心もとなうつきためれ」の部分は
「花びらの端に美しい紅色がほんのりと付いている」と訳されます。
しかし実際に梨の花を見ると、紅色なのはおしべの先で、花びらは真っ白です
(個体、品種にもよるのかもしれません)。
ただ、花びらの縁は桜よりもひらひらしているように見えます。
なので、花びらの端の「をかしき匂ひ」は、「きれいな紅色」ではなくて
「はなやかな美しさ」という意味に読んだ方がしっくりくるように(私は)思います)
紫式部と清少納言、どちらも漢籍に親しむ才女ですが、
こうして同じ題材・テーマで書いたものを読み比べてみると、
紫式部の方が読みが深いというか、
得た知識を完全に自分のものにしているように感じられます。
紫式部は、日本で一般には好まれない梨を和歌に詠むために、
中国流の「散る物」としての解釈をふまえた上で、
日本での散る物「桜」と対比させて見せた…のかなと。
私がどちらかというと紫式部びいきだから、こう感じるのかもしれませんけどね(笑)
今回採り上げた日中の文章4つですが、
時代には少しばらつきがあるのはお許しください。
◇ ◇ ◇
この話を書くために、実際に梨の花を見よう!と
新宿御苑に行ってきました(3月29日)。
このページに乗せた写真はすべて新宿御苑で撮ったものです。
梨の木ってなかなか無いものなんですよ…
新宿御苑にも1本しかないみたいです。
東京のあたりだと、稲城市や川崎市の多摩区の辺りには
梨園が多くあるらしいですが(梨の産地)、
どちらもちょっと行きづらい距離だったので(汗)
昨年の秋から(!)ぼちぼちとあちこち探したところ、やっと、やっと見つけたんです。
花の時期は桜より少し遅れるようで、
今年はソメイヨシノが満開を過ぎて少し散り始めるころに、4分ほど咲いていました。
新宿御苑の梨は実を採るための木ではないので、
自然のままに伸びた背が高く、
枝も桜のように横に広がらず、上へ上へと伸びています。
すらっとした、姿のきれいな木という感じです。
凛として、槍を手にした趙雲の立ち姿という感じです。(←えっ)
上向きにしか咲かない白い花は、主君に尽くす終生の忠節を感じさせます。
この梨の木に関しては楊貴妃っぽさはゼロでした(笑)
このページが誰かのお目にとまる頃には、花の時期が終わっていそうですが(汗)
よかったら来年あたり見に行ってください…
(趙雲ファンの方に、こっそりと推しておきます)
梨の木の詳しい場所です。
新宿門そばから大木戸門そばに続く散策路の、
新宿門側から入ってすぐのところにあります(園内ではありません)。
この時期、それらしい白い花はこの木しかないようなので、
散策路に入ってしまえば見つけやすいと思います。
参考文献
山元利達 校注「新潮日本古典集成(第三五回)紫式部日記 紫式部集」(新潮社)
萩谷朴 校注「新潮日本古典集成(第11回・12回)枕草子 上下」(新潮社)
西村富美子「鑑賞 中国の古典 第18巻 白楽天」(角川書店)
羅貫中「三国志演義(5)」立間祥介 訳(徳間書店)
(普通こういうのって出版年も書くものらしいですが…控え忘れてワカラナイです…)
「三国志演義」の原文はネット上からテキトウにひろってきたものなので
ひょっとしたら正確ではないかも…です(汗)
2013年4月3日公開