紫式部の「姉君」


紫式部の友人関係は、紫式部の一族と同じ身分的地位が多いのでしょうか。
少女時代であれば受領に任ぜられる程度、
宮仕えを始めてからは彰子中宮に仕える同僚たちになるかもしれません。
これはいつの時代でも変わらないと思いますが、
日常を過ごす生活範囲や活動範囲が重なり合う、立場が近い者同士でなければ
初めに接点を持つこと自体が難しいでしょう。
そして関係の始まりの時点ではそのようであっても、
時の流れや本人を取り巻く状況の変化で接点を失うことはよくあるものです。
人間関係の繋がりを保つには、例えば少なくとも時々は連絡を取り合うことが必要でしょう。
紫式部の時代のそうした連絡の取り合いは、交わした歌として残っています。
『紫式部集』を見ると、受領になった父に付き添って都を離れる友人と紫式部が交わした歌が記されています。
「筑紫へ行く人のむすめ(以下「筑紫の君」とします)」という人です。
筑紫は現在の九州北部です。
以下、現代語訳はいつも通りテキトウ訳です…(汗)

   筑紫の君:西の海を思ひやりつつ月見れば ただに泣かるるころにもあるかな
   (はるかな西の海を思いながら月を見ていると むなしく泣けてくる今日この頃です)

   紫式部:西へ行く月の便りにたまづさの かき絶えめやは雲のかよひぢ
   (西へ行く月(=あなた)への手紙は決して書き絶えることはしません。
   天女の渡る雲の通い路を通してでも必ず届けます)
   (月と言えば竹取物語を連想して天女と結びつきそうです。
    そして「雲のかよいぢ」と言えば、百人一首の「天つ風 雲の通い路吹き閉じよ をとめの姿しばしとどめむ」が思い浮かぶのではないでしょうか。
    「天つ風…」では五節の舞姫の美しさを天女に例えて、天に帰ってしまわないように「雲の通い路吹き閉じよ」と詠んでいます)


詠んだ歌に「西の海」という言葉が出ていることから、
この後たびたび出てくる「筑紫」や「西の海」はこの筑紫の君とのやり取りなのでしょう。
(西の海ということは現在の長崎あたりなのかもしれません。
長崎には西海橋という地名があって、昔そこのホテルに泊まったことがあります(笑)
西海市もありますね)


そうであれば「文の上に姉君と書き、中の君と書き通はしける」の部分で紫式部に「姉君」と呼ばれた人も、
この筑紫の君ということになるでしょう。
(中の君=同性のきょうだいで上から二番目の女子のことです。一般的な言い方です。
『源氏物語』では宇治の姉妹の妹も中の君でしたよね!
中の君から見ての姉君つまり長女は一般的に大君と言いますが、普段の姉妹の呼び合いで妹は姉に大君とは呼びかけなかったのかもしれません。
当時の言葉遣いのニュアンスの、はっきりしたことは分かりませんが…)


   姉なりし人亡くなり、又、人のおとと失なひたるが、かたみに行きあひて、
   「亡きが代はりに思ひ交はさむ」と言ひけり。
   文の上に姉君と書き、中の君と書き通はしけるが、
   おのがじし遠きところへ行き別るるに、よそながら別れ惜しみて、
   ((紫式部の)姉だった人が亡くなり、一方で、妹を亡くした人が、お互いに出会って、
   「亡くなった姉妹の代わりに思い合いましょう」と言ったのだった。
   手紙の上書きに姉君と書き、また中の君と書き通わしていたのだが、
   それぞれ遠い国へ行き別れるので、それぞれ別の所から別れを惜しんで、)

      北へ行く雁の翼に言伝てよ 雲の上がきかき絶えずして
      (手紙は私の居る北へ行く雁に言伝てください。
      そして手紙に「中の君へ」と上書きするのをやめないでください。
      雁が雲の上を翼で掻いて飛び続けるように)
      (北とは紫式部の行く越前、現在の福井のことを指しています。
       そしてわずか31字の字数制限があるので、1つの単語にいくつもの意味が複雑に重ねられています)


2人は繰り返し歌を交わします。

   筑紫の君:行きめぐり誰れも都に鹿蒜(かへる)山 五幡(いつはた)と聞くほどのはるけさ
   (遠くを行き廻っても誰もがやがて都に帰ってくるでしょう。
   でもあなたのいる遠い越前の鹿蒜山、五幡の地名を聞くと、
   それがいつになるのかと聞きたくなるほど遠い先のことに思えます)
   (この歌の詞書に「返しは、西の海の人なり」とあります。
    鹿蒜は越前の地名で「かびる」または「かひる」「かへる」とも読むそうです。かへる→帰るですね。
    五幡も越前の地名です)


   筑紫の君:難波潟群れたる鳥のもろともに立ち居るものと思はましかば
   (難波潟に群れて一緒にいる水鳥のように、あなたと一緒に暮らしているものと思えたらいいのですが)

   紫式部:あひ見むと思ふ心は松浦なる鏡の神や空に見るらむ
   (あなたにお逢いしたいと思うわたしの心は、松浦に鎮座する鏡の神が空からお見通しくださることでしょう)
   (この歌の詞書に「筑紫に肥前といふ所より、文おこせたるを、(紫式部は)いとはるかなる所にて見けり。その返り事に」とあります)

   筑紫の君:行きめぐり逢ふを松浦の鏡には誰れをかけつつ祈るとか知る
   (めぐり逢うことを待つという、松浦の鏡の神に誰を心にかけつつ祈っているとあなたはお分かりでしょうか。
   誰かとはもちろんあなたですよ)

話を戻しますが、同じ筑紫の君とのやり取りなのに、
なぜ「姉なりし人の…」という新しい詞書を書き添えたのか…
新しい詞書を加えると、何となく読んでいる読者たちからは
「ん?別の人との話になったのか」と誤解されてしまいかねません。
それでも書く必要があったのは、ひとつには雲の上での雁の羽ばたき「上掻き」と
文の「上書き」をかけていると読者にわからせるためですが、
「上がき」という言葉に読者の目を止まらせることで、
「雁」を読者の印象に残すためでもあったのかもしれません。

つまり、

   遠き所へ行きにし人の亡くなりにけるを、親はらからなど帰り来て、悲しきこと言ひたるに、
   (遠い所へ行った人が亡くなってしまったことを、親や兄妹などが京に帰ってきて、悲しいことを言ったので、)

   いづかたの雲路と聞かば訪ねまし 列離れけむ雁がゆくへを
   (どちらの雲路へ行ったと聞いたなら訪ねもしましょうものを 一羽だけ列を離れて行った雁の行方を)

の「遠き所へ行きにし人」も筑紫の君だったと考えられます。
肉親と別れた言い尽くせない悲しみを互いに分かち合い、
「一緒にいられたらいいのにね」「また会いたいね」「また会えるように祈っているよ」と
歌を交わした2人の再会はついに叶わなかったのです。

以上の歌は『紫式部集』に飛び飛びに記されています。
具体的には、似た状況(遠くに旅立とうとしている人や悩んでいる人など)の別の人の歌を挟んだり、
筑紫の君と全く関係ない状況で読まれた何首もの歌に続けられたりしているのです。
1人の友人との思い出だったら全てのやり取りが続けて書かれていた方が読者としては分かりやすいです。
それにもかかわらず、このような構成で歌集を編んだのは
紫式部にとって一続きで語るにはあまりにも悲しすぎる出来事だったためかもしれません。

なお、2人の歌のやり取りは、不安と寂しさに苛まれる筑紫の君を、
紫式部が慰め、励まし続けるようなものとなっています。
「中の君(=紫式部)」の方が「姉君(=筑紫の君)」よりも実際には年長だったのかもしれません。
紫式部が年長者におねだりや我が儘でせがむことをするとは考えにくいように思います。
そう考えると遠く離れても手紙の上書きの遊びを止めないように、と
紫式部がわざわざ歌に詠みこんだ理由が腑に落ちるように思えます。
主導権が年長の紫式部にあるからこそできた提案なのでしょう。
遠く離れてもこれまでと変わらず紫式部に遊びながら甘えていらっしゃいという、筑紫の君への思いやりの現れなのです。
上書きの遊び自体が、妹を亡くした年少の筑紫の君を慰めるために始められたものだったのでしょう。
かわいがってきた年下の「姉君」に先立たれる紫式部の悲しみの深さは容易に想像できるものです。

九州の地は紫式部にとって大切な友人が暮らし、没した場所であり、
自身が行ったことはなくとも、親しみも思い入れもある地域だったことでしょう。
源氏物語で九州育ちの姫君・玉鬘を登場させたのはこの筑紫の君の影響があるのかもしれません。
また、源氏物語で雁と言えば雲居の雁であり、玉鬘とは姉妹になります。
玉鬘も雲居の雁も苦労の多い少女時代の後にそれぞれに幸せをつかむのですが、
それは九州から帰れずに若くして亡くなった筑紫の君を
せめて自分の各物語の中で生き続けさせて、幸せにするためだったことでしょう。


続いて、2人が交わした歌に登場するひとつひとつの言葉にも注目したいと思います。
「月」「雲」「めぐり逢ふ」という言葉が見られます。
この3つの言葉を含む紫式部の有名な歌と言えばこの1首です。
詞書を併せて2首目まで続けてご紹介します。

   はやうよりわらは友だちなりし人に、年ごろへて行きあひたるが、ほのかにて、
   十月十日のほど、月にきほひて帰りにければ、
   (早くから童友達であった人に長年を経て行き会ったが、わずかな時間のことで、
   十月十日頃だったが、月と競うように帰ってしまったので)

      めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし よはの月かな
      (久しぶりにお会いしましたのに、誰であったかも確かめきれないほどのうちに
      あなたは姿を消してしまわれましたね。)

   その人、とほき所へ行くなりけり。秋の果つる日きたるあかつき、虫の声あはれなり。
   (その人は遠いところに行ってしまうらしい。秋の終わりの日が来た朝早く、虫の声が心に沁みる)

      鳴きよわるまがきの虫もとめがたき秋の別れや悲しかるらむ
      (鳴く力も尽きつつある垣根の虫に秋を引き止められないように、
      わたしもあなたを引き止めることができないのです。
      来る冬を前に秋の別れは何と悲しいことでしょう)

『紫式部集』の巻頭を飾る歌です。
詞書は「はやうよりわらは友だちなりし人に、年ごろへて行きあひたるが、ほのかにて、
十月十日のほど、月にきほひて帰りにければ」というので
一見すると驚くほどつまらない内容にも見えます。
しかし歌集の1首目が読者を惹き付ける“つかみ”として大変重要なのは、
改めて説明するまでもないことでしょう。
その重要な1首目であること、
加えて同じ一つの歌集に連ねられている
大切な友人と交わした歌に入っていた言葉が含まれていることは
見逃せない意味がありそうです。
続く2首目の詞書で「その人、とほき所へ行くなりけり」と書かれ、
歌では直接的な言葉で深い悲しみを表現するほかない「その人」とは、
やはり、筑紫の君その人だったのではないでしょうか。

2首目の詞書にある「秋の果つる日」すなわち秋の終わりは旧暦で9月末になるので、
こちらが1首目より先に読まれていた可能性は大いにあり得ます。
歌が作られた順に並んでいない可能性は、先に示した歌集の構成を振り返れば十分に考えられることです。
垣根の虫が鳴き声が弱っているのは、死期が迫っているからに他なりません。
つまりこの歌には死が暗示されているのです。
とほき所とは九州よりもさらに遠く、黄泉の国であったのです。

以上を踏まえると1首目と詞書の意味はこうなるのでしょう。

昔からの友人で、手紙には子供がするごっこ遊びのように「姉君へ」「中の君へ」と書き合う人がいた。
互いに会いたいと書き合いながらも長年会えずじまいだった。
それは、その人が遠く九州の地に下り、その地に没したからである。
もう二度と会えない人。いるはずがないことがわかっている人。
その死を伝えられて何年も経った月夜に突然、懐かしい彼女の面影を視界の隅に見た気がしたのである。
驚いて振り向いたが、やはり幻だった。
影も形もない。
幻でもそこにいてくれたなら嬉しかったのに、懐かしさと悲しみがよみがえる。
沈む月と競うように帰ってしまった…

最後に、「めぐりあひて…」を1首目に置くことには歌集の“つかみ”としてだけではなく、
もう1つ重要な意味があったことでしょう。
1首目から順番に読者に読まれること、それ自体に意味があるのです。
紫式部が友人の死を知らされる前に、友人自身の霊魂が紫式部を慕って
はるばる最後に一目会いに来たその情景を歌ったように見せることです。
群れから離れた一羽の雁は月の夜も飛び続け、群れに先駆けて筑紫から紫式部の待つ都に帰ったのです。
イメージに広がりを持たせることで、
歌そのものをさらに印象深く魅力的に読者に感じさせる効果を狙ったのでしょう。



大変長らくお待たせいたしました。
「月」の人をきちんと定説通りに女性とすると、このようになります。
どこかで聞いた話を継ぎはぎしたような内容ですが、みなさま納得の内容だと思います。
たまにはお勉強的需要もガッツリ満たします(笑)
中盤以降は結局お勉強要素捨てちゃってますが…
書いてみればやはりさすがは定説。
説明がいらない箇所が多くて、これでも割と簡潔に書けたと思います。
(書いているうちに予定より長くなったのは認めます…)

では、古典の日おめでとうございます!




2018年11月1日公開
戻る トップページに戻る